私をひとつ選択してみること
- テル.浜野
- 2021.12.28
- Column
連載『私は、私と生きていく。』 テル.浜野
私をひとつ選択してみること
僕は長い間「自分のことが大嫌い」だった。 小学校の入学直後、同じ班の子と喧嘩した。 僕は萎縮するように、じっくり周りの様子を見てから 常に目立つか目立たないかの微妙な立ち位置に居ることを初めた。 目立っても叩かれる、目立たなくても叩かれる それがなんとなく自分でわかっていたのだ。 小学生、中学生の頃は何とかこれでやり過ごせた。 でも、社会人になるとそうはいかない。 「目標はなんだ?」 「なりたい姿はなんだ?」 そんな言葉が周りに飛び交い、 考えるのが当たり前なのだと思っていた。 しかし、僕の思考回路は小学生の頃から変わっていない。 社会人になって、どの環境に身を置いても 目立つか、目立たないかの微妙な立ち位置に居続けた。 当然、いつまで経っても僕の「目標」なんてわかるわけもない。 モヤモヤする、 自信がない、 やりたいことがない、 目標がない、 人の役に立ちたいと思えない、 それではダメだとわかっているはずなのにまったく見えて来ない、 そんな自分のことがずっと大嫌いだった。 社会人になり、付き合いが増えれば増えるほど、またひとつの疑問が出てきた。 立ち位置の拡大に伴って起こった、僕の見え方の拡大だ。 ある場所では、編集マン。 ある場所では、営業マン。 ある場所では、裏方。 ある場所では、表方。 場所によって、人によって、まったく僕の見え方が異なるのだ。 どれが本当の自分なのかと 最初は困惑したが 数年かけてやっと、ひとつの答えにだどり付いた。 それが「全部僕である」ということだった。 僕を定義するのはあくまで僕ではない。 周りと生きる以上、僕を定義するのは 「僕と関わる周りの人達や場所」であるということだ。 解釈を変えるのであれば 「心地の良い僕を定義し続けてくれる人や場所を、 あえて選択し続ければ幸せに生きられる」 とも言えるのではないだろうかと考えた。 『どの自分で生きていくのか』を まずは自分で選択してみるという生き方だ。 もちろんそれだけでは、ダメなのだろう。 「大きな世界で比較されてこそ、成長出来る」とか 「広い世界を見て、初めて自分の立場がわかる」とか それは僕も理解は出来る。 でも今は、あまりにもたくさんの人の評価の中に巻き込まれていたり 自分で自分の場所や周りに居る人を決め切れていないことが原因で 疲れて、自分を見失って、自分を放棄している人も多いように感じていた。 きっと僕の場合は、小学生の頃からずっと 自分の場所を、人との関わりを 自分自身で決めて、自分で選択できていなかった僕に原因があったのだ。 そして、一度、生きてみる「私」を選択して 進んでみたのであれば、その先はいつでも変更可能だ。 その先に見えてくる世界は きっと今の自分には見えていない世界が広がっている。 僕の場合は、場所を変えたら、 その場その場で困っている人はたくさんいて 自分が力になれそうなことが想像以上にたくさんあるのがわかった。 そして、自分がおのずと力になりたいこと、 力になれることが見えてきて「目標」や「なりたい姿」が見えてきた。 きっと僕は、 元々なりたい自分になれる力を持っていたし 人の役に立てる力だって持っていたんだ。 一度、根本的な話に戻るが 「私は、私と生きていく。」というのは 僕が半年前、ある女性を応援するために作った動画のコンセプトだ。 彼女も小さい頃からの自分と、 大人になってからの自分、 その間でどの自分を選択するのかという 葛藤し続けているように見えていた。 きっと僕もそうだ。 前者の「私」が自分が今まで生きてきた場での「私」 後者の「私」が、まだ見ぬ場所で今後見つかる可能性のある「私」 この2つの「私」とどう巡り合うのか、 その上でどの「私」を自分で選択してみるのか。 そんな生き方から初めてみよう。 それをちゃんと記録してみよう。 「本当の自分」という答えのない問いに、 寄り道を通して得られた、発見や気付きを掛け合わせながら 「僕」という人間の変化を追い続けて記録してみる、 それが僕のコラムの柱だ。 僕は今「自分のことが好きに」なりつつある。