寄り道するほど学習は面白くなる

連載「わたしの寄り道つみ立て貯金」 いいくぼなおみ

寄り道するほど学習は面白くなる

高校3年生の時。
体育の先生か薬剤師になりたくて
クラス編成では理系コースを希望し、
勉強をしつつも
体育実技のための練習もしたりしてた。

それが、
一転して家庭都合で文系へ。

返済不要な奨学金制度があり、
学費的にも無理のない
文系大学への進学が決まった。

まともに勉強したことがない
日本文学の世界に入った。

自分では全く自覚がなかったけど
保育園の頃から
周囲の子たちに花博士って
呼ばれていたらしい。

成績は
いつも理科と数学でキープしてた。

学校事務員の経験のある母は
他の家庭に比べれば
「勉強しなさい」
「宿題しなさい」は言わないけど
選択肢がなくなるから
「受験の英語だけはやっておけ」
と言っていた。

でも、
実用として必要を感じないものや
興味を持たないものに努力ができない性分で
学校での英語に実用性を感じられず、
20台の偏差値を記録したこともある。

しかし、
母の言葉は正しかった。
当時は
英語だけ、できれば
合格する大学はたくさんあったけど、

英語だけ、できないと
合格できない大学ばかりだった。

印刷店を営む家業のお陰で
手伝いしながら膨大な文章に
目を通していたので
文学的理解は全くしていなかったけど
現代文の成績は良かった。

古文・漢文に至っては
英語と同じく必要性を感じない。
ただ、
漫画好きで「あさきゆめみし」や
「天上の虹」を読み込んでいたので
歴史背景とかはやたらにわかる。
加えて
時代劇好きだったので、
大河ドラマのお陰で日本史も
貴族と武士の時代はわかる。

こんなイビツで
個性的な学力を持つ大学1年生。

最初の2年間の一般教養では、
自然科学、社会科学、人文科学から
バランスよく単位を取らなくてはならない。

社会科学と人文科学は最低限で設定し、
数学、物理学、生物学、情報処理、、、
自然科学で単位を稼いでいた。

数学の教室に一人だけの
日本文学専攻学生。

担当の先生の方がびっくりしてた。

全くもって一貫性のない学習。

合わせて、
気になることは
徹底して言語化する癖のある私には
とてもとても
ふんわりした言葉を使う
日本文学専攻の友人たちの言葉も
教授たちの言葉もちょっと意味不明。

ロジックが成り立たない会話の
繋がりに気が狂いそうになることも
しばしば。

こんな中で出会ったのが
大学3年の時に出会った書道史。

課程の関係で取得できる教員免許は
国語か書道。
中学国語の免許のためには
書道実技を含め書道に関する単位の取得が必須で
仕方なく取った授業の書道史で、
自分の学習してきたものは
全くイビツでなかったことに
気づくことができた。

書には
篆書、隷書、楷書、行書、草書と五つの字体がある。
字の形からここに上げた順番で
字体が作られたように見えるが
実は、後半は
草書、行書、楷書の順になる。

草書の誕生は筆の発明から。
それまでの彫りつけるような文字から
なめらからな筆記に人気が集まった。
ここから
ある程度、
字体が整い判別しやすくなったのが行書。
そして、形が整い楷書となる。

小学生の頃に教わる書き順は
草書の頃からの体の自然な動きに
合わせた理にかなった書き方のルール。

手書きの文字と活字の文字の違いも
活版印刷の技術から
合理的に印刷を進めるために
生まれた活字用の字体の存在を知った。

西洋、東洋、文字の書かれ方の違い、
扱われ方の違い、印鑑の歴史、、、

書く、ということの歴史を通し、
人の生きてきた歴史と
技術開発、経済の変化、文化の形成、
そして、そこに生まれる文学とが
密接に関わり続けて
今があることが腹落ちした。

ここから考えていくと
日本文学と自然科学、経済の関わりは
本当に興味が深い。
中国の真似をしていた頃の日本は
花といえば「梅」と「萩」。
中国で春の喜びを告げる梅に
はぎぼうきなどで生活に近い存在の
「萩」が万葉集では多く詠まれた。

菅原道真の遣唐使廃止から栄えた
国風文化の中では
花といえば「桜」と「菊」。
農耕民族にとって重要な
田植えの時期を知らせる「桜」。
国が整い始め、
今を生き抜くことから
長寿へと意識の変化により
長寿の象徴「菊」が、
古今和歌集では多く詠まれた。
国風文化の発展を押し進めた
(菅原道真は梅の愛好家でも知られるが、
 中国で好まれる白梅ではなく、
 日本で好まれた紅梅が好みであったらしい。)

ここに、
月の満ち欠けや暦の考え方、
政治と生活様式との関わり、
宗教や地域限定の文化が加わる。

全く興味を持てなかった世界が
一気に知的好奇心の宝箱に変わる。

いろいろなものに
雑多に興味を持ち、
広く浅く学びを広げておくことは
さまざまなことを俯瞰して見る目を
自然に育ててくれる。

得意不得意があってもいい。
いろんな寄り道があっていい。

何か一つに打ち込むのも
素晴らしいことだけど、
その一つが途絶えた時に
次が難しい。

一つに絞らない学習には、
さまざまな知的好奇心への
どこでもドアが常にたくさん用意されている。

そんな風に想い、
今も子どもに大人に雑多に学習することと
ともに語り合うことを教育者として
勧め広めている。

執筆者

いいくぼなおみ Naomi Iikubo

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