「自由」と「責任」は天秤に掛け続ける

連載『私は、私と生きていく。』 テル.浜野

「自由」と「責任」は天秤に掛け続ける

自分にとっての「自由」
それに伴い社会から求められる「責任」
責任とは役割、お金、税金など様々な種類がある。

自由と責任の範囲と量のバランスについて
どの状態が自分にとって合っているのか
心地良いと感じるのか
それを自分で話せる人はどれくらいいるのだろうか。

比較的に悩んでいる人とは多く出会うのだが
自分の考えや今試行錯誤していることを
話し始める人は少ない印象を持っている。

そういう僕も明確に話せと言われたら無理だと思う。
でもフリーランスになって1年半が経ち、
色々な試行錯誤の末に徐々に掴めてきたようにも感じている。

だからこそ今日は「自由と責任を天秤に掛ける」
というタイトルで書いてみたいと思う。

自由の定義を決めた20歳の僕

20歳くらいの時
漠然と時間と場所に縛られないように
生きていける状態にしておきたいと思った。

当時の僕は
2年間の大学浪人(実態は引きこもり状態)にも精神的な限界を感じ
なんとか受かった大学への進学を決めて家を出ていたが
ゴリゴリの体育会系の大学に2年遅れて入学するという
地獄の世界に自ら足を突っ込むようなことをしていた。

集団行動にチーム責任。
ただでさえ、2年遅れて入ってきた厄介者である上に
本当に集団で動くことに向いていなかったようで
100人近く在籍する伝統的な部活の中で、
ひとりだけ違う行動を取り続けてしまっていた。
本当に申し訳なかった。

そんな僕が、
時間と場所に縛られない状態にしておきたいと思ったのは、
もしかしたら当然のことだったのかもしれない。

なんとなくではあるが自分の性格や特性を考えて
そうするべきだと自分でわかっていたのかもしれない。

そして同時に、僕にとっての自由の基準を
「場所と時間に縛られないこと」と定義した。

そのために必要なものは「PCとWi-Fi環境」

その2つだけあれば生きていける状態を作ろう。
最低限稼げるようにしておこう。
そう思い続けて20歳から生きてきた。

自由と責任の天秤を掛け続けた先のひとつの生き方

あれから9年が経ったが
やはりあの時の直感は正しかったのだと思う。

今の僕は、岡山と埼玉を行き来しながら生活している。
半々くらい、いや、やや岡山の方が多いくらいだろうか。

カバンには、
編集用のMac book pro 16inchとWi-Fi代わりの楽天モバイルのsimカード。
少しスピードは物足りのだが、楽天回線圏内であれば無制限で使用が可能だ。
ただ、繋がりにくい時もあるので念の為でahamnoのsimカードも持っている。
Apple magic mouseにRAVPOWERの90Wの充電器。
携帯や機材のバッテリーの充電用にAnkerの45wの充電器も持っている。
扱うデータ量が多いのでSandiskのSSD2TBとBUFFALOのHDD4TBを常に所持。
過去の全データは埼玉の家のHDDに保管しつつ、
一部のデータはGoogle one2TBを契約してクラウド上にも保管。
カメラはSony α7CにZEISSレンズのFE 35mm F2.8。
これにマクロフィルターを持ち歩く。
35mm単焦点だがAPS-Cに変換すれば50mmとしても使用可能だし、
マクロフィルターをプラスで付ければ70mmくらいの感じで物撮りも出来る。

動画の編集時には「duet」というアプリで、
iPhoneを編集専用のモニターとして活用。
書籍は基本KindleをPCと携帯に入れて見る。

仕事はGoolgleDriveやGoogle meet、slackとLineとmessenger、
そしてバーチャルオフィスの「Ovice」など使用している。
Google oneは2TBを契約していると録画もできるのでZOOMではなくmeetを普段使い。

これらの仕事道具をAer Travel Collection Flight Pack 3 という
20Lのリュックにまとめて持ち運びながら仕事をする。
撮影機材を持たないといけない時は機内持ち込み用のキャリーケースをプラスして持つ。

つい話が本筋から逸れてしまったが
引きこもり状態だった自分が9年が経って
本当に自分にとっての自由をある程度叶えて
カバン一つで生きていけるようになっているのは
他人事のように感じてしまい、ついつい笑ってしまう。

でも、この9年間、自分の自由と責任のバランスを
自分なりにではあるが取り続けてきた。

会社員のときは
ある種平日の8時間を捧げるという責任を果たせば
それ以外の時間と金銭面の自由はある程度担保される。

フリーランスでは
成果という責任を果たせば
時間と金銭面の自由は担保される。

どの程度の自由を求め、どの責任をどれくらい取るのか?
常にそのせめぎ合いをしてきたように思う。

どっちが良い、悪いじゃない。正解は存在しない。

自分の自由の定義と範囲と総量と
それに伴い発生する責任の範囲と総量と
今の自分の状態やタイミングなどを
総合的に判断して一歩を踏み出し続ける。

その進み続けた先で、
また自由の定義と果たすべき責任の範囲と量が変わってきたら
その時はまた「自由と責任の天秤」を引っ張り出して考え直せば良い。

自分にとっての自由を自分に聞く

結局のところ、自分のことは自分にしかわからない。
というより、自分の本当のところは誰に聞いても教えてくれない。
誰かが教えてくれるという期待は持たない方が良いと経験上思っている。
誰も自分の人生の責任を取ってくれないから。

こればっかりは色々と試してみて
自分の自由と責任の丁度良いバランスを見つけるしかない。

自分はどんな自由がどの程度必要なのか?
その自由を取るためには、どの程度の責任量を果たさないといけないのか。

試行錯誤して、まずはやってみて
自分のことを穴があくまで見つめてみたら
きっとその穴から、自分の欲しい自由の程度と
果たさないといけない社会的な責任の量が見つかってくる。

ジリジリと辛抱強く、ひとつひとつ積み木を積み上げるように。

最後に実は、今の僕は自由をあまり感じられていない。
きっとまた「自由と責任の天秤」を
引っ張り出すタイミングに来ているのかもしれない。

執筆者

テル.浜野 teru.hamano

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