舞台に憧れた記憶

連載『気が付けばガンジス川』 上杉惠理子

舞台に憧れた記憶

「えりちゃん、宝塚受けようよ」

高校2年の夏休み、ダンス部の練習中のこと。

フロアをターンで横断する練習で、端っこでちょっと順番を待っている間に、同期のライラがぽんっと言った。いきなりの話にものすごくびっくりしたけれど、次の瞬間に「受けたい」と言って、その場で号泣した。


今思えば、あの一言から始まった宝塚受験が、私の人生最初の寄り道でした。



宝塚歌劇団に入るためには、宝塚音楽学校に合格し2年間通う必要があります。その音楽学校の受験資格は、中学3年生から高校3年生まで。人生で4回しかチャンスがありません。

受験科目は当時で、一次試験がバレエと声楽と面接。「東の東大、西の宝塚」と一部で言われるほど、倍率は常に20倍以上。ちなみに現在の一次試験は書類選考になっています。私が受験した当時は誰でも一度は踊り歌うチャンスをもらえたので、本当にありがたかったなぁと思います。


私と宝塚を、舞台を、縁繋いでくれたのは従姉妹のお姉ちゃんだった。
11歳上の父方の従姉妹のお姉ちゃんが宝塚歌劇団の男役だった縁で、小学校5年生で宝塚観劇デビュー。最初に観た舞台は「ベルサイユのばら オスカル編」。ストーリーはほとんどわからなかったが、キラッキラの舞台からのパワーに圧倒された。以来、お姉ちゃんが退団するまで、東京公演はほぼ全て観に行っていた。今、宝塚のチケットを取るのは本当に難しいので、なんて贅沢だったのだろうと思う。


叔母の家に行き、お姉ちゃんの部屋をのぞくと、バレエ教室で主役を踊った小学生時代のお姉ちゃんの写真が飾ってあった。両親もみんなが、洋子姉ちゃんはすごいんだよと話していた。親戚の集まりにお姉ちゃんが登場すると、一瞬でお姉ちゃんが主役になった。


お姉ちゃんは小さい頃からバレエを習っていたけれど、
私がやっていたのは習字で。

お姉ちゃんは小さい頃からすらりとした美女だったけれど、
私はぽっちゃりメガネ女子で。

お姉ちゃんに、舞台に、憧れながらも、中学生になると先輩の誘いを断れずバスケ部に入部。好きでもなく得意でもなく、辞めたいとも言えずに自分をただただ抑えて部活を続けていた。そんな中学時代の唯一の楽しみが、数ヶ月に一度、お姉ちゃんが出演する宝塚の舞台を見に、日比谷に行くことだった。

お姉ちゃんはどんどん遠くなり、中学生の私には雲の上のような人だった。
会いたいと思っていても、実際会えると何を話していいかわからなくてもじもじしていた。




舞台に立ちたいという自分の思いを、自分に許可できたのが高校に入ってから。
高校は演劇部がまともに活動しているからという理由で選び、高校の合格発表が出てすぐにダンスをゼロから学べるカルチャーセンターを探した。高校に入って一年目は演劇部だったけれど、やりたいことは意外とダンス部にあると気づいて1年の3学期に転部した。


本当に行きたいのは、本当にやりたいのは、宝塚の舞台だった。
だけど「受験したい」の一言すら言葉にすることができなかった。



受験することすら絶対に自分には無理だと思っていたのに。

ライラの「受けようよ」に「受けたい」と返したあのたった一言で、絶対に無理だと思い込んでいた壁を一発で突破した。



そこからの行動は早く、「宝塚を受けたい、高三まで受けて無理だったら浪人して大学に行く」と両親に長い手紙を書いた。そしてそこから高校を卒業するまでの1年半、バレエと声楽のレッスン漬けの日々を送った。



あの1年半は、自分が自分でなかったくらいに真っ直ぐだった。
恥ずかしいくらい受験の戦略も何もなく、ただただそのとき自分ができることで精一杯だった。



結果はあっけなく、1次試験で落ちた。
本当にあっけなかった。
そして浪人生になって、またゼロから受験勉強をして、大学に進むことになった。






そして今私は、演劇やダンスをだいぶ離れた場所で仕事をしています。

でも、寄り道、というテーマをいただいて、やっぱりこの宝塚受験の話から始めたいと思いました。






そしてこの話には後日談がありまして。

約20年後の2018年、宝塚を受けようと言ってくれたダンス部同期のライラと再会した。

ゆっくり飲みながら話をしたら…なんと記憶が逆だった!!

ライラに言わせると「えりちゃんが宝塚を受ける気満々で、それを見て自分も受けよう!と思った」と。

あれれ?? 私はライラに言われて、受けるスイッチが入ったとずーっと思っていたのに笑



誰のどの記憶が正しいのか。
今となっては誰もわからない。



上杉惠理子

執筆者

上杉惠理子 Eriko Uesugi