寄り道が、物語を作る

連載『寄り道が、物語を作る』 新谷有希

寄り道とは

「寄り道せず、まっすぐおうちに帰りなさい!」

あなたが小学校や中学校へ通っていたとき、こんな言葉を聞いたことはありますか?
私は小学生のとき、何度か耳にしました。でも、その時に寄り道をした記憶はありません。 

子供たちの「寄り道先」は、公園や広場、昔なら近所の駄菓子屋などの限られた場所になるでしょう。 
大人になるにつれてその「寄り道先」はもっと複雑な場所、広い世界へと向かっていきます。
裏を返せば金銭力の獲得と同時に「寄り道の選択肢」は拡大していきます。 

では、大人の寄り道先はどこでしょうか。

分かりやすい例では、居酒屋・キャバクラ・ホストクラブなどがイメージされるでしょうか。 
そうなると選択肢は拡大というより、変化したといえます。 

『日本国語大辞典』によると寄り道の意味は「通行のついでに立ち寄ること。また、回り道して別の所へ立ち寄ること。」と記されています。 
仕事の帰り道という「通り道」にそれらの場所へ「立ち寄る」という状態を考えると、辞書の意味は正しいといえます。 
 
ここで注目したいのは、2つ目の文です。 
「別の所」は、なにも日常生活の空間に存在する場所だけではありません。 
普段の生活空間とは全く別の場所でもいいのです。いや、むしろその方が良いといえるかもしれません。

辞書に載っていない、私が考える「本当の寄り道」は
大海原へヨットで繰り出して、時間をかけて海を渡り、偶然見つけた陸地を旅するように・・・ 
長い時間をかけて、いろいろな場所を訪れて、色々な人と出会い、やがて、自分自身を築き上げていく「人生を構築する要素」です。
いわゆる、夜の店ように大量消費社会に存在する一消費物ではありません。  

私は、いまも寄り道をしています。 

その理由は、わたし自身が欲望と素直に向き合ったからだと思っています。 
寄り道はこれまで多くの人々の人生を作り、ときに歴史を代表する物語や文化をも構築してきました。 

そんな不思議な出来事である寄り道について、さまざまな角度から考えてみます。 

寄り道 × 没入感

わたしが初めて「寄り道をしているな」と実感したときは、高校時代です。 
基本的にまっすぐ家に帰ることはなく、友達と放課後ファーストフード店や公園に行って雑談してから帰る、というのが日常でした。やがて夏休みや冬休みにアルバイトをするようになって、少しばかり金銭的余裕が出てきた頃、放課後に球場へ寄り道をするようになりました。 

私は野球が好きで、当時から福岡ソフトバンクホークスが好きです。 
球場に寄り道をするようになった理由は、テレビではなく球場で試合が見たかったからです。 
その欲求と素直に向き合い、野球観戦というものに惹かれただけです。 

もちろん、毎日試合があるわけではないので日頃の生活とバランスを取りやすかったのも理由の一つです。 

 球場への寄り道には色々な思い出があります。 
18歳未満なのに東京ドームで23時45分まで試合を見たり、西武ドームの試合は全て観戦に行ったり、高校から2時間かけて千葉マリンスタジアムへ行ったりと・・・ 
人間の行為的には寄り道ですが、当時のわたしからすると試合観戦は寄り道ではなく、日常生活の一部になっていました。 
特に、西武ドームのライトスタンドは沢山の出会いと思い出が詰まった空間。
わたしの意識としては、意識的な寄り道ではなく、無意識的な寄り道。つまり没入感がそこにはありました。 
そこで得られたものは思い出や経験だけではなく、何年にも渡るホークスファン同士の繋がりという、お金では買えない財産や経験までありました。 

当時を振り返ると、日常生活の一部になるほどの没入感がある寄り道をしたからこそ、心の底から「好き」といえるものを見つけることができた上に、人との出会いもあったのだな…と気づきました。 

野球観戦は単なる消費ではなく、自分の人生の一部を構成する要素なりました。 

当時の寄り道が作り上げたストーリーがあったからこそ、今でもホークスが好きだし、ファンをやっているのだと感じます。 

連続性がある寄り道

「長い人生、時には遠回りも必要だよ」 

こんな言葉を、どこかで耳にしたことがあると思います。 

字面通り言葉を受け取るのであれば、「遠回り」という言葉は寄り道に置き換えることができるのではないでしょうか。 

高校卒業後以降のわたしは、どうも真っ直ぐな人生を歩むことができず、遠回り=寄り道を繰り返してきました。その過程を述べることは、文量と気持ちの観点から省略します。 
けれど、ここでいえることは、球場への寄り道のように単発的な寄り道の繰り返しではなく、長期間に及ぶ連続的な寄り道をしてきた・・・いや、今もしているということです。 

わたしはいま、寄り道をした結果大学に再入学して3年生の後半を過ごしています。 

その大学生活も寄り道の過程にあると言っても過言ではありません。 
大学に通った結果、新しい知識や思考が身についたことはもちろん、学生という身分でしかできないようなボランティアやサークルなどの経験もしました。人との出会いもありました。 
一歩立ち止まって考え直し、大学に行ってよかったことに改めて気づいています。 

「急がば回れ」ということわざがありますね。 

急ぎたくなった時こそ、最短距離を走り抜けよう!というプランを捨てて 
「寄り道をする」という長い道のりをたどることが必要なのかもしれません 。

寄り道が、歴史や物語を作る

寄り道が物語を作ってきたストーリーは、各個人の人生だけではありません。 
映画や小説、芸能文化でも見受けられます。それぞれ、少しずつ例をあげてみます。 

映画:千と千尋の神隠し 
千尋の家族は引っ越し先の家に向かう途中不思議な異空間へ寄り道をします。千尋の父の好奇心が要因で寄り道をしたわけですが、結果として千尋は労働を通じて大人への階段を登り、ハクとの出会いも果たしました。 

文学:おくのほそ道 
『おくのほそ道』はかの有名な俳人、松尾芭蕉の紀行文です。芭蕉が旅をした目的は、式年遷宮が行われる伊勢神宮へ向かうためですが、その途中東北や北陸といった全然違う場所へ寄り道をし、その心境や情景を俳句で詠んだ結果、文学史に残る紀行作品を生み出しました。 

歴史:東海道五十三次 
江戸時代、江戸から京(京都)へ向かうために人々は徒歩で移動していたわけですが、東海道を真っ直ぐ進んで目的地へ向かうのではなく、途中の宿場に立ち寄ったり、伊勢神宮へ寄り道したりと、旅行者は思い思いの寄り道をしながら目的地を目指しました。 
東海道五十三次は単なる移動ではなく、寄り道が付き物の移動といえるでしょう。 

芸能:落語 
日本の伝統芸能として知られている落語のルーツは、神社の境内や街中で芸者が、現代では都心の駅前にいるストリートミュージシャンのように喋っていた「辻噺」にあります。そこに通りがかりの聴衆が集まり、ゆくゆくは「落語」という伝統芸能を確立していくことになりました。聴衆の寄り道がなければ、落語はいま存在しない芸能だった・・・かもしれません。 

このように歴史に残る作品や文化は、微力ではあるものの寄り道によって築かれたといえるでしょう。 
寄り道は時には人の人生を作り、時には歴史を刻むのです。 
伊勢神宮の内宮参道。寄り道の代名詞といえる場所には、どれだけの人が訪れたのだろうか。

寄り道をする「勇気」

寄り道という言葉は一般的に使われています。 
ところが、寄り道という言葉は大人になるにつれて敬遠される存在になっていきます。 
現実問題として、大人になってから寄り道をすることはハードルが高い行為といえます。

なぜでしょうか。 
当たり前なことを、あえて最後に考えてみます。 

現代社会は人生100年時代と呼ばれています。人々は未だ経験したことがない長い人生を歩んでいることから、人生のプランを考えることの重要性が随所で謳われています。 

そのプランは仕事から金銭面まで多岐に渡ります。 
私はそのプラン設計において、生活上不要な出来事は排除し、コストやリスクを最小化する傾向があると思っています。 

突発的に発生する寄り道を人生プランに入れてしまうと、最初の想定とは別枠で一定のお金と時間が必要になります。 
また、学校教育の名残から「寄り道は良くない行為」というイメージが残存している人もいるかと思います。 

つまり、寄り道はある程度のお金と時間がないとできない、贅沢品といえます。
全ての人にとっての必需品ではないのです。

でも、人生をより豊かにしたいのであれば、 

時には人生のプランを追加する勇気を持って、少しだけ寄り道をすることを提案したいと思います。 
これは私の気付きや発見にもとづく提案です。 


そうしたら、新しい世界や自分と出会えるかもしれません。


・・・・

おわり